海上はどんよりとした雲が広がり南からの風が強く波が荒れ、芳一を載せた船は右に左に大きく揺れながら湊に向かっていた。船は主に物資運搬の小型の海運船で荷に混じって数人の乗客が乗っていた。船が揺れるため、船員以外立っている者は誰もいなかったが、ふいに芳一が立上り暫くの間ジッと前方を向いたまま動かずにいたが、突然大きな声で叫びだした。
「船頭、船を止めろ!」
一人の船乗りが芳一のそばに来て答えた。
「おう、坊さん!小便でもしたいのか?悪いがもう少しで湊に着くから、しゃがんでておくんな」
「向かいから船が来ているのがわからんか!?」
「小せぇ船が来てるのは知っているさ。なぁに心配するな!じきに向こうが避けていくだろ」
「そうじゃない!この船が沈められるぞ!!」
「ちっ、海賊か?!」
そう言うや否や船乗りは慌ただしく騒ぎ出した。
「おう、前にいる小舟は海賊みてぇだぞ!」
碇を下ろしたことにより動きが変わった海運船を見て知盛は呟いた。
「坊主め!気付いたか・・・敦盛、蟹を呼べ!」
敦盛は無言で懐から取り出した竹笛を口元に当てた。海原に哀しい笛の音色が響き渡り、空は墨を撒き散らしたように急激に黒さを増し、波は音を立てて更にうねり出した。芳一が乗った船と知盛一行を乗せた小舟の中間あたりがゴボゴボと泡を立て異様に波しぶきを上げ、やがて水面が大きく隆起した直後巨大な蟹が現れた。甲羅に怒った鬼の顔のような模様が凹凸によって描かれた平家蟹の化け物である。巨大な平家蟹は水面から姿を現したと思いきや、即座に海の中に潜ったため、大きな波が幾重にもなって押し寄せて来た。海運船は暴れ馬の如く無造作に揺れ、船内では乗っていた人やら荷物やらが乱雑に転げ廻り、ワーワーと乗船者たちが騒いでいたところ、バキバキと壮絶な音を立て船底を突き破って平家蟹の足が海中から突き上げてきた。船体は持ち上がりなが2つに分断され、海面に落下した衝撃で更にバラバラになってしまった。乗っていた人たちは海中に投げ出され、あちこちに散乱して浮いている船の残骸や荷物にしがみつこうと必死になっていた。
平家蟹の化け物は、平敦盛が竹笛を吹くことにより操られていた。蟹のハサミで捕らえようと芳一の姿を目で追いながら笛を奏でていたが敦盛は芳一の姿を見失ってしまった。海面に散乱して漂っている浮遊物の影に芳一が隠れていると踏み、平家蟹の足で浮遊物を撹拌しようと蟹の身体を海面から浮上させたその時、敦盛は海中に浮かんでいる芳一の姿を捉えた。芳一目掛けて向けられた大きなハサミは瞬く間に芳一を挟み込んでしまった。海の中ではいかな芳一でも俊敏に動くことができなかったのであろう。
「ハッハッハッハッ、でかしたぞ敦盛!所詮は琵琶法師よ。ワーハッハッハッ」
小舟の船首に立ち腕を組んで静観していた知盛は、軽快に笑い敦盛に指示を出した。
「坊主を掴んだまま、蟹をこっちに戻せ!」
大きな蟹は敦盛の笛の音色に従い、鬼の顔をした甲羅を水面に出しながら水しぶきを上げて主人の元に戻ってきた。蟹は近くまで来ると、芳一を掴んでいる左のハサミを水面から出してきた。グッタリとした芳一を見た知盛は高らかに笑っていた。